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魅惑の「請関天目」とは?
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- 請関敏之さんはこれまで陶芸の表舞台とは無縁の孤高の陶芸家でした。40歳の時に曜変天目茶碗に魅了され、試行錯誤を繰り返した末、45歳の時に技術を習得。さらに年月を重ねて独自の美の境地を開きました。それが「請関天目」です。70歳を超えた今もなお、さらなる高みを目指す姿勢を崩すことはありません。まずは、異彩・超絶の美を放つ請関天目の素晴らしさをご覧ください。器に広がる釉薬の斑点や流れは小宇宙のようで、見る者を飽きさせることなく、幻想的な世界に誘います。それも確かなろくろ成形技術があってこそ、生きる表情です。かつて中国の南宋時代に福建省の建窯で焼かれ、日本に伝わったとされる曜変天目茶碗は、今、欧州を中心とした新潮流「ファインクラフト」としても注目されています。
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40歳で曜変天目茶碗に目覚める
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- 請関さんが埼玉県ときがわ町に自身の窯「比良陶苑(ひらとうえん)」を開いたのは35歳の時。当初はオブジェや家庭用食器を創作する日々が続きましたが、次第に曜変天目茶碗にのめり込んでいきました。一般的に曜変天目茶碗は再現が難しいと言われていますが、「簡単には到達できないからこそ、興味を惹かれる」と請関さんは言います。陶磁器研究者の小山富士夫さんと化学者の山崎一雄さんが分析し論じた書籍『曜変天目の研究』を読んでみても、陶土や釉薬などは特別な材料では一切ありません。しかし焼いてみると、最初はただの黒い茶碗にしか出来上がりませんでした。問題は焼成の仕方にあったのです。
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薪窯を導入し、焼成方法を進化
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- ある時、請関さんはICチップの表面の製造技術が紹介されている新聞記事を見つけ、これをヒントにして、頭の中で焼成方法を組み立てました。窯の中で強い還元焼成をした後、器の表面に薄い酸化皮膜を作ることで、あの光彩が生まれることを発見したのです。こうして曜変天目の製作方法を確立し、独自の作風として「請関天目」を完成させていきました。さらに2020年、これまで使用していた電気窯を薪窯に刷新しました。薪窯は温度をゆっくりと上げて保つのに向いています。そのおかげで理想的な温度コントロールと還元焼成を実現できるようになりました。一般的に曜変天目の中でも粒状の表情が見られるものを「油滴天目(ゆてきてんもく)」、線状の表情が見られるものを「禾目天目(のぎめてんもく)」と呼びます。これらに加え、窯の刷新により斑模様も表現できるようになったのです。
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紫がかった黒が広がる「紫黒」シリーズ
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- 請関さんは瀬戸や信楽、益子、そして地元で採れる土をブレンドし、鉄分の多い陶土に仕上げ、ろくろで生地を成形します。この生地に鉄やシリカ、酸化アルミニウムなどを主成分とする天目釉を柄杓で流し掛けたり、生地ごと樽に漬けたりします。躍動的な釉薬の掛かり具合や溜まり具合も、請関天目の個性と言えるでしょう。今回、まずご紹介するのは「紫黒」シリーズの杯です。赤紫や紫、青、黒などが複雑に混じり合った不思議な色合いの器で、手のひらに宝石を抱えるようです。
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- そして新たな形の酒器にも挑戦しました。1つは長細い形の筒杯、もう1つは一合前後が入る一合杯です。どちらも杯よりたっぷりとした容量で、ビールをはじめ、焼酎やウイスキーの水割りなどをお楽しみいただけます。いずれも1点物ですので、この機会をどうぞお見逃しなく、お気に入りの請関天目を手に入れてください。
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波乱万丈な陶芸家人生の始まり
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- 請関さんの陶芸家人生は実にユニークで、ドラマチックです。請関さんは福岡で生まれ、京都で学生時代を過ごしました。しかし学生運動が盛んな頃で、まともに勉強ができません。23歳の時に老舗の喫茶店「鍵善」で河井寬次郎の作品に出合います。その展示作品にいたく感動した請関さんは、福岡に戻り、上野焼の窯元で職人をしていた弟を頼って身を寄せ、半年間修行に励みました。そして上野焼の産地より少し南に下った小石原焼の産地に、25歳で窯を開きました。2〜3年経ち、時代が高度経済成長期に突入すると、民芸品が注目される風潮もあり、請関さんの作品は順調に売れていきました。また、その頃から九州大学の学生だったポルトガル人が請関さんの窯に頻繁に遊びに来るようになり、いつしか友人になりました。彼のビザがまもなく切れる頃、「国に帰ると徴兵されるため、ブラジルに移住したい」と彼から打ち明けられ、「トシユキも一緒にブラジルに行かないか」と誘われました。ここから請関さんの運命が大きく変わります。
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ブラジルの小さな街に産業を興す
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- ブラジルは、請関さんが子どもの頃から憧れていた国。これは良い機会と捉え、妻子を連れて30歳でブラジルに移住することを決めました。遥々たどり着いたのは、ブラジル南東部のサンパウロ州クーニャ市。そこは陶土に最適な木節粘土が採れる街でした。請関さんはブラジルの街中で見かけた白いレンガに着目。これは焼物の陶土にも使用できると確信し、その出土場所を突き止めたらクーニャ市だったというわけです。運良くクーニャ市で偶然出会った女性に親切にしてもらい、空いている倉庫を借りて窯を開くことができました。
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- その後、ブラジルに初めて登り窯を設立。請関さんは日本の民芸調の食器や花瓶、オブジェなどを作り、現地の人に向けて販売しました。ブラジル人は屋外にオブジェを飾る習慣があり、特に好まれたと言います。近所の子どもたちも手伝いにやって来て、窯元の仕事を徐々に覚えていきました。あっという間に3年半の月日が流れ、請関さんは帰国。一方、妻はブラジルに残り、後進の育成に邁進します。それまで目立った産業がなかったクーニャ市でしたが、今では20軒近くもの窯元が点在するまでになり、観光地としての人気も高まりました。それもすべて請関さんの功績だったのです。
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意と匠研究所がサポート
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- 意と匠研究所は、これまでも、これからも挑戦を続ける請関さんを応援していきます。ここでご紹介する作品の売り上げの25%をいただき、請関さんの活動や作品について取材や原稿執筆、写真撮影、編集などを丁寧に行い、また今後の新規開発に対してもアドバイスを適宜行っていきます。
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